


テレビやABEMAなどの将棋中継を観戦していると、画面の隅に常に表示されている「AIの評価値」。今の局面でどちらが有利かがパーセンテージで一目でわかる現代の観戦には欠かせない非常に便利な機能です。
しかし一方で、「最初から正解が分かっていては、将棋が単調に見える」「数字ばかり気になってしまい、人間同士の勝負としての面白みが減った」と感じている長年のファンの方も増えているのではないでしょうか。
この記事では、現代の将棋界が直面している課題として囁かれる「評価値ディストピア」の本当の意味と数字至上主義の時代にあえて人間同士の対局を深く楽しむための視点を解説します。
「評価値ディストピア」とは、将棋ソフト(AI)がはじき出す数値が「絶対的な正解」として扱われすぎることで、将棋本来の魅力が奪われていく暗黒世界(ディストピア)のような現状を危惧した言葉です。
日常生活や学校の教育現場などでICTツールの導入が進み、システムが瞬時に「最適な正解」を出してくれる便利な時代になりました。しかし将棋の世界では、そのテクノロジーの便利さが、かえって対局者や観戦者を無機質な数字に縛りつける鎖のようになっている側面があります。
かつての升田幸三・実力制第四代名人が魅せたような、意表を突く新戦法や常識にとらわれない発想。そうした「人間の創造性」から生まれた手がAIの計算上は「最善手ではない(評価値が下がる)」と判定される時代です。
棋士たちがAIの弾き出す最善手をなぞるだけの存在になってしまえば、そこにあるはずの人間らしい苦悩やドラマが失われてしまう。この言葉には、そんな未来に対するファンの不安が込められています。
人間同士の対局では、自分が少し不利な時に、あえて盤面を複雑にして相手のミスを誘う「勝負術」が醍醐味の一つです。これを将棋用語で「紛れ(まぎれ)を求める」と言います。
しかし、AIの評価値はこうした泥臭い勝負術を単なる「評価値が下がる悪手」として容赦なく切り捨てます。結果として、プロ棋士であっても人間的な駆け引きが指しづらくなり、将棋の展開が綺麗すぎる(=面白みが薄れる)という懸念が生じています。
これは盤上だけの問題ではありません。
私たち「観る将」もまた、画面に表示される数字に縛られています。
プロ棋士が長考の末に放った渾身の一手に対し、評価値のパーセンテージが少し下がっただけで「あ、今のは悪手だったんだ」と短絡的に判断してしまいがちです。その手がなぜ指されたのか、棋士の深い意図や重圧を読み取ろうとする、観戦本来の奥深い楽しみを自ら手放してしまっているのかもしれません。
AIには「焦り」や「疲労」がありません。
しかし人間には、残り時間が少なくなる恐怖や、対局室の張り詰めた空気から受けるプレッシャーがあります。
評価値には絶対に表れない、こうした「盤外の戦い」に注目すると、一手の重みがまったく違って見えてきます。
完璧なAI同士の対局は、ミスのないまま静かに終わります。
しかし人間は、どんなトップ棋士であっても極限状態では間違えます。
一つのミスから評価値がひっくり返る大逆転劇は、不完全な人間同士だからこそ生み出せる最高のエンターテインメントです。
評価値自体が悪いわけではありません。
大切なのは距離感です。
数字を「絶対の答え」とするのではなく、「AI先生はこう言っているけれど、生身の人間にはどう見えているのだろう?」と、一つの参考書のように捉えるのが、大人の余裕を持った観戦スタイルです。
AIの進化は止まることがなく、評価値が中継から消えることはもうないでしょう。
しかし、どれだけAIが進化し、何億手先を瞬時に読めるようになったとしても、静寂に包まれた対局室で、自らの頭脳だけを頼りに震える手で駒を進めているのは生身の人間です。
数字の向こう側にある「棋士の息遣い」に少しだけ耳を澄ませてみませんか?評価値がすべてを数値化してしまう時代だからこそ、人間同士の将棋の尊さがより一層輝いて見えてくるはずです。