南禅寺の決戦とは

将棋の歴史「南禅寺の決戦」とは

南禅寺の決戦とは

江戸時代までは家元が名人に就任していましたが、明治になり家元以外でも名人になれるようになります。ただし、名人戦という棋戦があったわけではなく棋士、関係者の推薦により名人が選ばれていました。実力のある棋士が選ばれていたのですが、名誉職的な意味もあり、終身名人制(亡くなるまで名人であり続ける)でした。

 

この家元以外で最初の名人となったのが小野五平十二世名人です。その小野五平十二世名人が亡くなり、関係者の推挙により関根金次郎十三世名人が誕生しました(1921年)。当時、関根十三世名人のライバルだったのが坂田三吉八段。坂田は関根の名人襲名には賛成していたとされています。

 

坂田三吉の名人僭称

事件が起きたのは関根の名人襲名から4年後の1925年。坂田三吉八段が関係者の推薦を得て「名人」を名乗りました。終身名人制の下で関根金次郎十三世名人がいるのに、です。坂田の行為に対して、東京将棋連盟は「名人僭称」として激怒。坂田を連盟から追放しました。

 

この背景には関東(東京)vs関西(大阪)という側面もあります。関根金次郎十三世名人は東京の人、坂田三吉八段は大阪の人です。坂田を名人として推薦したのは大阪の実業界の人々。「なんでもかんでも東京の好きなようにはさせん」という気持ちがあったのかもしれません。

 

名人を名乗ったことで10年ほど将棋界から孤立した坂田ですが連盟と和解。その結果、行われることになったのが「南禅寺の決戦」です。相手は関根金次郎十三世名人の弟子で当時の第一人者とされていた木村義雄八段(のちの十四世名人)。31歳の木村と66歳の坂田の対局となりました。

 

坂田の△9四歩

この対局の持ち時間は各30時間。一週間かけて対局が行われました。先手木村の初手▲7六歩に対し、坂田は△9四歩。いきなりの「変化球」で対抗しましたが、木村八段が勝利しました(YouTubeなどで棋譜が見られます)。

 

当時の時代背景

南禅寺の決戦が行われたのは1937年(昭和12年)です。前年の1936年には二・二六事件があり、この年(1937年)の7月には日中戦争がはじまっています。歴史の教科書に出てくるような時代ですね。ちなみに、プロ野球で初代MVP(最優秀選手)が選出されたのも1937年で、巨人軍の沢村栄治投手が選ばれています。「沢村賞」の「沢村」ですね。また、大相撲で双葉山が69連勝をした時期(1936年から1939年)とも重なります。

坂田三吉は、阪田三吉と表記される場合もあります。

 

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